水元かよこ展Kayoko MIZUMOTO Wisdom of Vanitas
だれかにお前は何を目的にして生きているかと、いきなり聞かれたとする。どきりとさせられそうだが、筆者ならその人の顔をのぞき込んで、そんなことはこちらが聞きたいくらいである、余計なお世話だと返しそうである。何のために生きているかということは、個人の秘密みたいな一面をもつものなのではないか。そういった青臭くも哲学的な問いは、まじめ人間ほど深入りしそうだが、そのような人たち、自分探しではないがなにやら悩みながら、納得させてくれる答えを求めてさまよう人のいかに多いことか。やはり不安なのである。わけても今の私たちはそうなのではないか。
釈尊はこの世は無常に去りゆくものであり、しかも苦界であり、五蘊皆空、色即是空、人間本来無一物だという。しかし私たちはこれを静かに甘受できるだろうか。いっときは助かったような、救われたような気になるが、瞬時にして元の木阿弥に戻ってしまう。釈尊の教えは今生を超えているからかもしれない。この世は無常であるとか、無である、空であるということは、突きつめていえば結局これは死ぬのだという考えである。そう言われると身も蓋もにべもないが。
しかしながら、私たちは死をあまりにも矮小化し過ぎているのではないか。生ばかりが肥大化して持てあましているように思われる。専門科学は死を遠ざけよう遠ざけようとし、不老不死まで可能であるかのようにいう。しかし、それでもなお死なねばならないという事実がある。死というただ一つ確実な未来というか必然が厳然とある。ときにはこのことを直視すべきなのではないか。たしかに私たちの存在は、滅亡とか虚無といった底なしの谷に、かろうじて掛けられた吊り橋のようなものかもしれない。しかしそこに掛けられ存在しているのは何なのか。はかない存在だが、死との対置において私たちは存在しているのである。死ぬから生きているのである。それは死とか無という絶対に拮抗しようとする有ともいえる。
釈尊も今生に対する後生、後生といっても西方浄土というものではないが、死してのニルヴァーナ、安らぎを説いたのである。一休禅師はされこうべを竿の先に巷を練り歩いたという。死を思えということであろう…。
今展初お目見えの水元かよこ。撮影用に到来した作品にはヴァニタスの魂壺(タマツボ)とあった。にょきにょき生えた触手はギリシャ神話のメドゥーサの頭髪を思わせる。重力に逆らって技術的にも非常に高度なものが窺われる。そしてある種の毒気を帯びつつ美しい九谷顔料でびっしり絵付けされている。手指の精妙なマニピュレーションが躍如としている。ヴァニタスとはなんぞやと思いきや彼女の添え文があった。
「ヴァニタスとは、十七世紀オランダ静物画で生の儚さや虚しさを表す一つのジャンルです。旧約聖書に由来する概念で、そのモチーフには死の確実さを表す頭蓋骨、人生の短さを表す時計や蝋燭、儚さを象徴する花、シャボン玉などがあります。しかし死に近づくほど生は眩しくはっきりと輝きながら浮き上がってくると私は思います。死に抗う赤い想いとヴァニタスのモチーフを明るく表現しました。」
そう言われると見事に表現できていると思う。このような泰西絵画に現れる思潮は、ギリシャ厭世観に源流を発するのだろう。死の絶対的な断絶とその多次元性…、私たちに教示するものがある。昔の智慧は洋の東西を問わないのである。何卒のご清賞を伏してお願い申上げます。-葎-
Artist
Detail
- 会場
- ギャラリー器館
- 会場住所
- 〒603-8232 京都府京都市北区紫野東野町20-17
- 会期
- 2024年10月19日 〜 2024年11月3日
- 詳細
- https://www.g-utsuwakan.com/gallery/exbt-20241019